シュウシュウの季節 1999/11/17

「シュウシュウの季節」 (1998年 米)
評価:★★★★☆
監督・製作・脚色:ジョアン・チェン初監督作(「ラスト・エンペラー」)
出演:李小路(ルールー)、洛桑群培(ロプサン)
原作・脚色:ヤン・ゲリン(「天浴」)
<シネスイッチ銀座ほかで上映中>

■受賞
 1998年第35回金馬奨(台湾)11部門ノミネート、7部門受賞
  (監督・主演男優・主演女優・作品・音楽・脚色・主題歌)
 1998年第48回ベルリン国際映画祭正式出品
 1998年第13回フォーと・ローダーデイル国際映画祭 審査員賞
 1999年第14回パリ映画祭 審査員特別賞・主演女優賞

■あらすじ 
 
 中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れる1970年代。「下放」政策によって労働奉仕のために都市から農村へ親元から引き離され一人派遣された少女シュウシュウ(秀秀)のたどる、あまりにも非情で過酷な運命。

■感想
 
 いまだかつて、いたいけな少女にこれほどの絶望と試練を課した物語があったろうか? 極限に達した望郷の念を癒すため、半ば偽りと知りながら、「帰郷」の甘い希望を携えてやってくる男たちに身を任せるシュウシュウの哀れ。彼女を深く愛しながら、「男」として彼女を抱きしめてやることすらできないチベット人老金(ラオジン)のやるせなさ。スクリーンの中で淡々と進行する半年間に及ぶこの修羅の日々に、泣くことすら忘れてただ呆然としてしまう。本来なら「悲劇的」と言えるラスト・シーンは、逆にハッピー・エンドのようにすら思えてしまう。童話「マッチ売りの少女」がそうであったように。

■みどころ
 
 「ラスト・エンペラー」で王妃役を演じた女優ジョアン・チェンの初監督作。しかもアメリカ製作。この映画でハリウッドの高い評価を受けた監督は、次回リチャード・ギア、ウィノナ・ライダー主演のハリウッド映画「Autumn in N.Y.」を控えている。

 中国だけにとどまらず、フランスを始め全世界に共産主義革命の大旋風を巻き起こした毛沢東の「文化大革命」。知識人を排撃し農工を厚遇・奨励。「実践」「奉仕」の大合唱の中、学校・都市から辺境へ「下放」されて行った無数の青少年たち。多感で夢多き彼らの中には一体どれほどの悲劇や絶望が満ち満ちていたろう。革命が招いた歪を象徴的に告発するこの映画の撮影は、革命から四半世紀を経た今の世でさえなお、中国政府当局の許可がついに得られなかったという。そう、この映画は政府に背いて「隠し撮り」されたものなのだ。昨年公開の「北京のふたり(The Red Corner)」同様、「開放路線」を標榜する中国政府も未だ、自らの国家の闇の部分を晒すことには寛容になれないでいるようだ。
 でも、そんな政治的な生臭さはこの映画にはない。あるのは、下放少女シュウシュウの地獄のような悲劇と、彼女を受け入れたチベット人遊牧民ラオジンの拷問のような悲劇だ。そう、この物語はシュウシュウの物語であるとともに、異民族として異なった意味で過酷な宿命を背負ったラオジンの物語でもあり、また、この二人の決して語られることのない「愛」の物語でもあるのだ。このラオジンの設定がとてもストーリーを奥深いものにしていて秀逸。彼はシュウシュウを「男」としても、対等な人間としても、愛する道を絶たれている。親よりも彼女のことを慈しんでいるのに、彼女に襲いかかる害悪から守ってやることができない。まさに拷問だ。例えは悪いが(女性の方、ごめんなさい!)、手足を縛り付けられたまま恋人が陵辱されるのを見せ付けられているのと全く同じこと。男にとって殺されるよりもつらい屈辱と自己嫌悪。だからこそのこのラストがある。故郷の街に帰りたい。そのためにすべてを捧げてきた彼女が最後の手段を思いとどまったとき、彼女はある決意をする。ラオジンはそのとき、たったひとつ、自分が彼女の「幸せ」のためにしてやれることがあるのに気付く。ここまでの経緯を観てきた観客には、決してこの決断が諦めから来る「後ろ向き」なものではないことがわかるはず。愛する人に、たったひとり自分に愛を与えてくれた人に、召されたい。そしてラオジンもまた、それが果たせなかった思いを遂げる唯一の道でもあると確信したのだ。

***
 今、これを書きながら私はとめどなく流れてくる涙を拭わずにいます。観終ってこの方ずっと呆然としたままだったのが、ここに来てようやく、静かに胸の中に染み渡って来ました。かわいそうなシュウシュウ。でも最後の最後、よかったね。本当の愛がみつかって、本当の愛に包まれて、ほんとうによかったね。

<koala>

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