ふたりの人魚 2001/05/10

■「ふたりの人魚」(蘇州河)(2000年 中独日合作) 評価 ★★★★☆
監督/ロウ・イエ
出演/ジョウ・シュン、ジア・ホンシュン、ヤオ・アンリェン、ナイ・アン
受賞/2000年ロッテルダム国際映画祭タイガー・アワード、TOKYO FILMeX2000最優秀作品賞受賞
<テアトル池袋で公開中、シネマ・ドゥ(大阪)にて今夏公開予定>
 
□あらすじ
 人魚になった恋人を探す男と、人魚に恋した男。何れ妄想か現実か。澱んだ河に臨む上海のダウンタウンを舞台に、孤独な二組の魂のドラマが交錯する。

□感想 
 ストーリーと映像の完全なまでの融合を成し遂げた、みごとな脚本と演出に驚嘆を隠せない。そしてこれが、新人監督の独立第一作であり、インディーズ作品であることを知って、その驚きは倍加する。
 男にとって、女性はその幻影性が強ければ強いほど、狂おしく追い求める対象となる。今、その肌に触れていたかと思うと、次の瞬間には目の前から消えている、そしてまた、何食わぬ顔でぶらりと戻って来る、そんな女。「痴人の愛」、「時代屋の女房」、そして「寝取られ宗介」然り。主人公が場末のバーで一目惚れした人魚ショウの踊り子メイメイは、まさにそうした女だ。宮本輝の小説「月光の東」に、妾宅に「娑婆」を持ち込むなという旦那の言いつけを守り通した妾の話が出てくるが、気の向いたときに現れ、何日も一緒に過ごしたかと思えばふっと消えていなくなるメイメイは、ロマンチストである男にとって現実的な「娑婆」とは対極にある理想的な存在なのかもしれない。
 そうした主人公のイメージの中でのみ息づくようなメイメイを、本作では「視線カメラ」という手法を用いて、主人公の目線で追う。この手法、イザベル・カレ演じる若い娘を愛人関係にある中年男の目線で追った「視線のエロス」で採用されて大成功を収めたもので、本来の主人公である視線の持ち主の顔は写さず、その視界に入る事物と、それらを追う視線の動きだけで主人公の心象を表現しようとする非常に高度な技法。そして、恋がテーマである場合には、その視野の大部分を恋人女性が占めることになるのであり、演じる女優の資質が成否を大きく左右する。
 本作では、屋外ロケーションや部屋、店内の装飾に綿密な計算を巡らせることで、この困難な技法の効果を最大限に導き出し、そこへ、美しさだけでなく独特の情感のあるジョウ・シュンという素材の魅力が相乗されて、退廃感に満ちた観念的な映像世界を形作ることに成功している

 そもそもこの物語は、どこまでが現実で、どこからが幻想なのか。あるいは全てが現実なのか。「私を死ぬまで探し続けてくれる?」(関係ないのだが、これはまた、上で述べた宮本輝「月光の東」で女性が主人公に投げかける『月光の東まで追いかけて』という謎のメッセージを彷彿とさせる。) ことの発端は、メイメイが主人公の愛の深さを確かめるために引き合いに出したマーダーとムーダンの永遠の愛の物語。姿を消した恋人の少女ムーダンを生涯探し続けた配達夫マーダー。主人公はしかし、その話を知らなかった。彼は、メイメイの語る物語の断片に尾ひれを付けて、ムーダンとマーダーの馴れ初めから二人を引き裂く事件、そして人魚伝説を残して消えたムーダンを探すマーダーの心の旅路へと空想を展開してゆく。ところが、突如彼の前にマーダーが現れ、メイメイこそムーダンだと主張する。ここで彼の空想は現実と結びつき、主人公のみならず観客もが混沌へと引きずり込まれる。果たしてメイメイはムーダンなのか。マーダーはムーダンと再び寄り添うことができるのか。そしてその果てに待ち受ける運命とは。そして・・・、また物語はまた発端へと戻る。二重構造、堂堂巡り。いやはや、うますぎる。久々に地力のある作品と才能に出会った。23カ国上映という世界的な評価を得て、十分な体制のもとで繰り出される監督の次作に大いに期待したい。
 
<koala>

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