クレーヴの奥方 2001/07/18

「クレーヴの奥方」  
  〜この現代に於いて、究極のプラトニック・インモラル・
        ラブ・ストーリーはもはや成立し得ないのか?〜

 封切前から大きな期待を寄せていた「クレーヴの奥方」を観た。原作はフランスのマダム・ド・ラファイエットの同名小説で、1961年にジャン・ドラノワ監督によって一度映画化されており、本作は、その翻案リメイクである。
 夫以外の男性、それも名うてのプレイボーイに心を奪われてしまった人妻。彼女は自分を恥じ、夫に誠実であろうとするあまり、何も知らない夫にその<心の浮気>を告白するのだが、それが逆に夫を苦しめ、死に至らしめてしまう。恋路の障害が無くなった筈の妻はしかし、なおさら恥じ、亡き夫への詫びも重なって、遂に蟄居して社会との関係を一切絶ってしまう。彼女がその恋人との面会を受諾したのは、哀れにも・・・
 これがドラノワ版のストーリー。ヒロインは皇太子妃であり、<恋人>もまた皇族。そもそも「恋」などというものに身を委ねることが許されるはずのない時代背景と地位の設定が、登場人物たちを追い詰める大きな要素となっている。典型的なコスチューム・プレイ(コスプレじゃないよ!)だ。美しさは罪。貞淑さもまた、罪。この、ある種痛々しいヒロイン像に見事なまでに説得力を与えた主役マリナ・ヴラディのたたずまいがまた素晴らしい。
 そう、実は筆者、このドラノワ版オリジナルの大ファンなのである。だからこそ、今回のリメイク版には、不安とともにことの外期待も寄せていた。ヒロインを演じるのが、今は亡き名優マルチェロ・マストロヤンニと、未だ活躍目ざましいカトリーヌ・ドヌーヴの血を受け継いだ究極の名血統キアラ・マストロヤンニと聞けば、なおのことだ。
 さて、そのリメイク版だが、物語の舞台は現代のパリに置き換えられ、ヒロインはブルジョワ階級の若き貴婦人、そしてその<恋人>はなんと国際的ロック・シンガーという突拍子もない設定。しかも、そのシンガー役は、ヨーロッパでカリスマ的人気を誇るというポルトガル人ロック・ミュージシャン、ペドロ・アブルニョーザが本人として演じるという、音楽にこだわりを見せる監督ならではのキャスティングとなっている。
 ブルジョワ婦人と大スター。社交界を舞台に接点は十分考えられる設定ではある。しかし、この設定から想像し得る顛末は、「浮き名」と呼ぶに相応しい、もっと奔放なものだ。時代は現代なのだ。
 夫人は、夫に誠実であるとは言っても、身分の合わない彼氏を足蹴にしてのその結婚劇からは、打算やしたたかさといったものが香立つ。ところが、ロック・シンガーに「ほの字」になっただけでうろたえてしまう。かといってそれは、彼氏を犠牲にしてまで得た良縁への執着とも見えず、彼氏への意地ともとれない。
 そして<恋人>の人物像。プレイボーイとして名を鳴らすスターとあれば、「その気」が見え見えの貴婦人を我が手にするだけの「恋愛の技量」は持ち合わせていてしかるべきだろう。が、本作では、彼は夫人の前に出没して「圧力」はかけるのだが、一向に具体的な行動に移らない。最後にはストーカーまがいの挙にまで出るのだが、一線を越えてこない。それはまるで、彼自身が架空の存在で、夫人の妄想の中にしか息づいていないかのようだ。
 もうわかるだろう。そう、この二人の人物像には、極端に現実味が欠けているのだ。それは、人物設定のせいでもあり、また、それぞれを演じた俳優とキャラクターとの乖離のせいでもある。
 そもそも、この現代に於いて、若者世代にとって「貞淑」などという言葉は意味を持つのか?キアラ演じるヒロインは若い。そして、夫に頼らずとも優雅に暮らせる身分。子供もない。既婚者のアヴァンチュール話など、吐いて捨てるほど今の世には存在していて、たとえ社交界に身を置くと雖も、浮気そのものがヒロインやその夫を追い込む原因となることは説得力を欠く。そして、決して清純派とは呼べないキアラの容姿が、ヒロインへの感情移入をさらに難しくしてしまった。
 ストーリーも共感し難い面が多い。夫を心で裏切った妻が態度で夫への誠実さを見せたことが却って夫を苦しめ、死に至らしめてしまう。そして妻はその罪の十字架を一生背負って呵責を慰めようとする。。。こうしたストーリーの根幹に於いてはオリジナルと本作とは共通するものの、ヒロインがとことんまで自分を恥じ、夫に詫びつつも、如何ともし難い自らの心に苦しみ、蟄居という形で自分を追い詰めていったオリジナルに対し、本作のヒロインからは、修道院やアフリカという聖域に安易に逃げ込み、自らの心の安寧を優先させるような、極めてセルフィッシュな色彩が強く感じられる。同様の色彩は、上でも述べたように、恋人を捨てて良縁に従った彼女の結婚に至る過程にも漂う。彼女の姿勢は常に<逃避>なのである。もちろん、心情としては理解できる。しかし、そこからオリジナルに通じる深い<苦悩>は感じられない。胸に迫り来る心の疼きがないのだ。
 それでは、現代を舞台としてこの物語を成立させるにはどのような設定があり得るのか?一つには、夫婦の愛や絆をもっと強く描き込むことが考えられよう。相思相愛、何不自由ない暮らし。そこに入り込む男の影。その男は、本作のように夫人に自ら会いに来たりしてはいけない。夫と正反対の極端なプレイボーイ。夫より若いが爵位は夫より高い、なんていうのがいいかもしれない。若さと地位。こうした条件的なものにも心引かれてしまったのか・・・。その裏で、今日も夫に甘言を並べ、その満身の愛を受けている。社会的な制約が少ない現代においては、こうしたより個人的なことがらが行動を縛る制約となりうるのではないだろうか。
 オリジナルを越えよう、オリジナルとは異なった視点を与えよう。リメイク版作品が必ず経験するこうした気負い。オリジナル版が名作の呼び声高いものであればあるほど、リメイク版の越えるべき敷居も宿命的に高くなる。しかし、本作は寧ろ、気負いが小さすぎたところに敗因があるように思える。設定を大きく変えることなく時代のみ現代に移した脚本の安易さ、そして、本物の歌手やピアニストを登場させたり、キャラクターを無視して有名さのみでヒロインの配役を行った演出の安易さ。そこからは、なぜ今、「クレーヴの奥方」なのか、その創作意図が見えてこない。

■「クレーヴの奥方」(1999年 ポルトガル) ★☆
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
出演:キアラ・マストロヤンニ、ペドロ・アブルニョーザ、アントワーヌ・シャピー、レオノール・シルヴェイラ、フランソワーズ・ファビアン、ルイス・ミゲル・シントラ
上映館:銀座テアトルシネマほか(〜7/27)

■オリジナル版「クレーブの奥方」(1961年 仏伊)  ★★★★☆
監督:ジャン・ドラノワ 脚色:ジャン・コクトー
出演:マリナ・ヴラディ、ジャン・マレー、ジャン=フランソワ・ポロン、アニー・デュコー

<koala>

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