蝶の舌 2001/08/01

■「蝶の舌」(1999西) 評価 ★★★★ 
監督/ホセ・ルイス・クエルダ
出演/フェルナンド・フェルナン・ゴメス、マヌエル・ロサノ、ウシア・ブランコ
受賞/1999年サン・セバスチャン国際映画祭正式出品作品/1999年スペイン・アカデミー(ゴヤ)賞脚色賞受賞
 
□あらすじ
 1936年、スペイン片田舎の小さな村。小学校に通うことになった、喘息持ちでの多感な少年モンチョは、ハートあふれる老教師ドン・グレゴリオ先生に出会い、多くを学び、子供社会にも溶け込んでゆく。世界のこと。恋のこと。そして、蝶に舌があること・・・。先生が毎日語る知識に、モンチョは目を輝かせる。先生と野山を巡り、音楽家志望の兄と大人の世界を覗き、共に楽団に入って各地を巡る毎日。
 しかし、そんな日々も、大人たちの政争が残酷に打ち砕かれてしまう。戦争が引き金を引いた王党派による共和派弾圧。そして少年はグレゴリオ先生の逮捕を目の当たりにする。彼らへの罵声を子供にも強要する大人たち。そのとき、モンチョが叫んだ言葉は?彼の怒りの意味は?

□みどころ
 ヨーロッパの学校での授業風景を描いた作品が好きだ。なんと言っても、子供を教える教師たちの、学問や知識に対する思いの大きさがいい。特にフランス映画によく登場するのは、生徒相手に我を忘れて詩を吟じる国語の先生。そして、哲学者の説いた思想を憧れに満ちて語り聞かせる哲学の先生。子供の時分にこんな授業を受けられたら、どんなにか情操を豊かに育むことができるだろう。著作は吟じ、そらんじて感じるもの。思想は、思想家の精神世界に思いを馳せて体で受け止めるべきもの。こうした教育が徹底しているためか、フランスでは教養の多寡に関わらず青年たちが日常の会話の中で気に入った詩の一節、思想の一編をそらんじ合う光景がしばしば見受けられる。
 こうした作品を観るにつけ、教育が、受験のためのもの、知識の集積のためだけのものではなく、日常生活を豊かにするためのものであることにいつも気付かされる。どうせ使わないから習わない、ではなくて、身に付いた豊富な知識を自分の感情表現の一手段として自然な形で会話の中に取り込んでゆく。知識を生かす道は、単にそれを直接利用することだけではないのだ。
 この「蝶の舌」も、生徒たちに知の喜びを与えてくれる素敵な教師が登場する。子供たちが抱える病気や家庭事情、そして互いの諍い。そうした問題に彼は全人格を以って対処する。頭ごなしに教え、導くのではなく、子供たちに考えさせて、自らの力で正しい道を選ばせる。彼には、子供たちに心を開かせるのに十分な,人格的な魅力が備わっている。何も言わなくても、子供たちは耳を傾けるに値する大人を見分け、慕うものだ。それが大いに発揮されるのは、いじめられて引きこもるモンチョを彼が学校に戻らせるシーンと、今で言う学級崩壊にも通じる騒然となった授業が、何も言わず外を見つめる彼の悲しみを感じ取った生徒たちによって自発的に平静を取り戻させるシーン。
 少なくとも冒頭より全編の4/5は、教室で、野山で展開される教師と生徒たちとの素敵な授業風景が淡々と描かれている。時折そこに、無垢な生徒たちの世界と大人たちの世界とを結び付ける「事件」が割り込むだけだ。
 こうして、焦点の絞りにくい展開が終幕近くまで続き、一体どういう結末を迎えるのかと次第に不安になってくる。そして、あと10分もすれば終幕という段にになって、物語は急展開を遂げる。そこで観客は、それまで積み重ねられてきたエピソードの全てがそのクライマックスの伏線となっていることに気付かされる。全人格を以って子供たちに信頼され、慕われ、愛された教師だからこそ、生徒たちの前に変わり果てた姿で現れた時の生徒たちの衝撃もまた大きい。それは、幼い彼らにとってある種の裏切りと映ったであろう。このときの生徒たちの心情を理解するためには、やはり教師と生徒とを繋ぐ交流の残像がどうしても必要だったのだ。そして、その残像があるがゆえになおさら、ラストはあまりにも悲しく衝撃的なのだ。しかし次の瞬間、モンチョの口を衝いて飛び出した意外な言葉に、観客は再度驚かされ、そして癒される。果たして彼の小さな体を振り絞って放ったその言葉は、教師の老いた耳に届いたのだろうか。届いたのなら、それは教師にどのようなメッセージとして伝わったのだろう、モンチョ自身にすらわからない彼の複雑な感情。幼くして、その小さな胸が抱えきれない思いを抱かざるを得なかったモンチョの運命が悲しい。
 こうして、大人の怒り、喜び、そして子供の喜びと怒り。そのすべてが混迷の時代を背景に散りばめられ、それらが一点に終息してゆくストーリー構成は見事だ。

<koala>

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